Dolls
映画監督ってのは、何故 映画を撮るのだろう。
僕らはなんで映画を観るのだろう。
内容とは全然、関係ないことなのに
ふと そんなことを思ってしまった。
北野武作品。
「監督、ばんざい!」を観た時に
正直、無駄な映画だなぁ~。って思ったんです。
これは、たけしさんが撮りたいもの?
僕ら観客が観たいもの?
なんか、その両方ともを満たしていない映画のような気がして
単なる消費物。。。
まだ消費物ならいい方で、
単なる資源の無駄遣い?
全くもって存在意義のないものなんではなかろうかと
思ったりした自分がいたんです。
北野作品はちょっと自分にはあわないから
もぅ観るのはやめよう。
そんなこともちょっと思ったりもしたんですけど、
その前に、1作だけ。
昔、会社の先輩の壁紙になっていた画像の色彩の美しかったこと。
その画像が、北野作品の「Dolls」の1シーンであったこと。
そんなことを思い出し、
これで北野作品は最後。って気持ちで
この作品を観たのです。
色彩美。
キタノブルーと称された北野監督が
その青だけではなく、
もっと暖色系の色や淡い色使いも織り交ぜて
日本の四季をあざやかに撮影したその映像。
それにも増して、
セリフも動きもそんなに多くはないけれど
確実に 観る者に何かを印象付けさせる
映画そのものの存在感。
なんだか僕はその世界に引き込まれそうになって、
あぁ、そうかぁ~、
映画を撮るとはこういうことかぁ~。
映画を観るとはこういうことかぁ~。と
妙に納得してしまったんです。
映画監督は、映画を撮りたい意図があるから映画を撮る。
僕らは、(まぁ、理由は異なる事も多々はあるけど・・・)
その意図を受け取りたいから映画を観る。
「監督の撮りたい意図」と「僕らが受け取って感じた意図」が
同じであるかどうかはこの際、全く問題ではないと思う。
もしくは、もしかすると
監督には何の意図もないのかもしれない。
テレビと違って
万人には受け入れられないものでもあるかもしれない。
でも、僕らがその映画から少しでも何かを感じれば
その映画は、僕らにとって意味のあるもの ― 存在意義のある映画 ― になるのだろう。
ただただ歩く菅野美穂と
それを引きずる西島秀俊君。
ほとんどないセリフの中で
それでもただひたすら歩く2人、(そして、それと交錯する2つの話)をあなたはどう感じましたか?
僕は・・・
なにか哀しいとか切ないとか嬉しいとか
そんな言葉を超越して
あぁ、"映画"だなぁ~。という感情を抱きました。
たとえ、他の評価がどうであれ
この作品は、"存在意義のある映画"なんだと思います。
「そういえば、あの人もたらこが大好きでした。」